男をもっと知って欲しい (19)更年期前後の夫婦が抱える文化的問題点
「アンチエイジングの専門家がナビゲート」(ガイド:熊本悦明)
更年期における生物学的、また日常生活上の男女の性差がもつ意義とは何なのか。
§更年期前後の夫婦が抱える文化的問題点
男女の更年期を論ずるには、その前に大きな問題として、男と女の性の問題を取り上げなければなりません。ただ“性”というとすぐ人々は所謂セックスをすることと発想しがちですが、それは世の“週刊誌かぶれ”の頭で考えることで、何故男か女か、何故性別、男と女の区別が創られ、またその生き方に差が生まれているのかという問題なのです。セックスだけが男と女の人生ではない事を認識して欲しいものです。
そして、ここで問題となるのは、性の主目的である生殖を終えて更年期となると、無生殖年代にはいるのですが、その年代における生物学的あるいは日常生活上の男女の性差は、どんな意義を持つのかいう問題になるのです。言うならば、男と女としか生きられない生き物・人間にとって、極めて根本的な問題である“性”の意義が、更年期後においてどの様なものになるのか、生物学的と共に文化的にも問題となる訳なのです。そこで男女の性の意義について、いくつかの解釈を試みてみます。
少し長くなりますが色々検討してみたいと思います。
1)下図に示すように生き物には生きていく為に3つの本能が与えられております。
個人の生命を維持する為の“食本能”、そして個々人が厳しい自然の中で単独で生きていく為に群として生きる為の“群本能”がまずあるのです。そして個を群につなぐ本能として“性本能”が与えられております。
その性本能で、“最小の群pairを形成”し、そのpair生活の中で性行為―生殖―“次世代誕生”、そして新しい群を形成し、“生命の伝承”という生物の大命題を遂行していくのです。
ところがその生殖が終わる更年期で、その性本能の意義がなくなり、あとは余生と表現されます。かつては、この更年期以後の余生問題は短い期間であり、さしたる深刻な議論とならなかったのです。しかし最近長寿化時代を迎えるようになってみると、生殖―群拡張という生物学的意義がなくなっても、“pair形成・最小の群形成”と言う意義が大きく浮かび上がって来ているのです。
Pairと言う意味での群形成のあり方としては、最近は同性愛という形もあり、必ずしも男女pairということにはならないのですが、同性愛(同性愛も2人の役割は男女のパターンといえます)にしても、正常の男女にしても、質の異なる陰陽和合の原理の必然性があるといえます。しかしその必然性とは何かと問われれば、これは現在の生物学・医学の学問的レベルでも、未だ説明がつけられない難問と言わざるを得ません。
2)次に、もう一つの文化に性を解釈する考えもあります。
この図の様に、都市計画の専門家の話で、文化都市には、家と道路を創り、その中の整備を済ませても、それだけでは不十分で、文化的交流の場としての公園・森・池、さらには劇場・美術間などの交流施設がなければならないとのこと。これを人間に置き換えれば、家屋と同じ個体の健康整備が十分でも、人生のQOL維持の基本は、群形成の憩いの場としの男女のカップル形成、そして家族・親類の群れの環境が求められるのと同じといえます。男女の性には生物学的意義と共に社会的・日常的生活の上の意義もかなりある訳です。
3)さらに、その男女カップル間の愛・引き合いの原理を医学的に説明するのは、かなり難しいのですが、私は次のように説明図のような形を用いております。
生き物は、始めはゴム粘土の一つの塊の様なものであったのが、生物が厳しい自然の中で生き残り生命を伝承させる為には、多様な遺伝子組み合わせの可能性を創りうる雄雌・男女の2つの細き繋がる玉に、神の手で分離されたと考えております。
その離れた2つの男女の玉の距離の幅は、生殖年代になり、生物学的を遂行する為の性ホルモン分泌で広がり、上図のように、大きくなるのです。
そして離れれば離れるほど、ゴム紐のように引き合い引力が強くなるので、男女が強く引き合う愛が、生殖年代では強く生まれるのではないでしょうか? 加齢により、性ホルモンの減少に伴い、その男・女の生物学的性差が小さくなるに従い、両者の間が近くなって来る訳です。
ただ、男は、胎生期に引き返せない、男性化と言うルビコンの河を渡った以上、高齢になると男女差がなくなり、女にまた同化・中性化するという文化系の言う論理は、生物学的にはあり得ない訳です。図のように“幾つになっても男と女”というのが自然の論理なのです。そこに更年期後の男女の在り方・性問題の意義があるといえます。
4)ではもう少し文化的な立場から、夫婦男女の社会的な在り方を考えてみましよう。これが長寿化時代における高齢者のとっての一番関心のある問題であり、また日常生活上の重要な問題でもあるといえます。
よく、若い時は“動的な性”、生殖世代後は“静かな性”などと表現されておりますが、“静かな性”による男女の心と身体の両面でのスキンシップも、生き物としての自らの“生存の確認”する手段としての深い意義があるものといわれております。
ただ中年過ぎの人間男女には、生物学的な男女の性的交わりは淡白になり、むしろ日常生活で背負ってきた男と女の性役割のニヌアンスの影の方が、性的関係より、重い男女問題になっているのです。更に云うならば、結婚生活を、長いカップル生活として過ごして来た男女には、その生活の過去の諸々のエピソードの記憶が、男女の性的関係の上に大きく被さっている訳で、それが中高年男女の性にまつわる医学的・社会的な問題点となっているのです。
男女の生物学的性関係と、日常生活環境上でお互いが持った性役割が、縦横に複雑に織りなされていて、それぞれの男としての、女としての性的心理感覚が出来上がっているのです。しかも、更年期までの生活上の現実的な性役割の重み方が、生物学的・感覚的性意識より、かなり優位に心理構造を創り上げているのです。欧米の狩猟系民族の男女と比較すると、生物的性の重みが比較的軽く、社会的性役割の方の重みがより強い、我が農耕系民族での夫婦関係では、生物学的性関係より、生活上の性役割の方が高く重視される傾向にあるといえます。
最近、更年期以後の中高年の男女関係が、よくジャーナリズムで注目される様になっていますが、その議論の流れは、セックスレス・カップルが多いせいか、医学生物学的観点での具体的な性的関係に関する論点より、むしろその社会的性役割からみた男女のあり方に焦点を合わせた議論の方が重視されている様に見えます。
殊に、生殖的問題から離脱しつつある更年期以後の男女にとっては、性的愛の生き物学的引き合い以上に、日々の日常生活的感覚が重視される傾向が強くなっております。
そのように日常生活での男性の在り方が注目されるので、男性は側かなり困惑しているのではないかと感じています。それは、男性にとって、成人期の外的社会生活が優位であるにが日常であったので(殊に日本ではその傾向が強いため)、定年退職後、今迄の基本である社会性が失われ、内向きの日常生活が重視される日々では、かなりな生活感覚上の混乱が生じてくるのです。
よく、第2の人生の中年男性に、等身大に生きよとの掛け声が、よくかけられていますが、社会的生活から離れて、日々の自由時間の多い日常生活の中で、自分個人のあり方を自分本位の目的を見出しつつ、それを実践するということは、かなり今迄と異質な生き方なのです。すぐに日常性の等身大生活にすぐ適応せよといってもかなり戸惑う筈です。
日常的等身大生活という自分本位の生活パターンは、これまでの社会のインフラストラクチャーである社会構造形成に関与する生活との関わりが少なくなり、出来上がった土俵の上での平穏かつ退屈な生活(?)とは、大分相容れないものなのです。
女性的な生活感覚とは、男性が営々と汗水流して築き上げた出来上がった社会機能構造の上に乗っての、性的な日常生活での話なのです。たとえば、鉄道が創られ、走る機構や如何に、などというのではなく、それとは無関係の、ただの乗客しての問題になるのと同じなのです。
中年夫婦の男女は、それまではお互い内向き・外向きの内容の違う世界での生活を基盤に生きてきたのです。ところが定年で男子は女性側の生活環境に移住して来る訳で、簡単には馴染めないと言えます。その生活を長年巧みにこなしてきた女性・妻と同じ様に、その新しい環境の中で、上手に生きよと言われても、容易に適応できないといって良いでしょう。巧みにそれを長年こなしてきた妻から見れば、たどたどしく等身大生活をよちよち生きる夫の姿は、危なげな頼りない生き方に見えてしまう訳で、妻のとの間に大きなハンデキャップをもつことになります。
今までは、日常生活にかなり背を向け、外向きに頑張っていた夫を、支え面倒を見てきたにしても、その夫が今は同じ日々の日常生活で同じ生活をする様になったからには、今迄と同じ様に、なお面倒を見よとは可笑しいという、不公平感が強くなり、“そんなに沢山出来ない”と思う感覚が湧いてくるのが実情のようです。
その為、中年以上のカップルでのアンケート調査では、夫の方は若い時のイメージをそのまま残し、心理的に若い時代の生活感覚で恋人的思いを維持しているのに、妻ははや夫を同居人と見る率が高くなっていている、というかなりのチグハグさが目立つ人間関係になっていることが少なくないのです。
深刻な問題は、この様な中年期における女性側の対応に対して、男子の立場から非難すると、殆どの医師仲間の女性学者の方々から、次の様な反論を出てくることです。すなはち“若い成人年代の夫の生活が、余りにも会社人間的であり、家庭は寝るだけで、性関係の自分本位で過ごしてあった反動ですよ。今されこちらを向けといっても無理じゃないですか”と。
この様にかなり厳しい発言が多いのには、男性側からすると、唖然とせざるを得ません。
多くの中年男性は、所謂会社人間時代、仕事中心に懸命に働き続け、朝早い出勤、夜遅い帰宅という生活の中で、仕事上のストレスがかなり溜まり、大なり小なり更年期障害症状に悩みながらも、使命感から耐えつつ頑張っているのです。それを女性側は、かくも冷淡に、経済的基盤の確立という理由での共同生活的視点からしか、眺めていないのは如何のものか、という感を受けております。
定年後の家庭経済が、現役時代の様に夫の外向きな社会生活での収入で支えられているのでなく、夫婦半々の権利となる年金経済の変わるとなれば、妻側に経済的に平等化したという意識が生まれてきて、以前の様な支える意識が薄れ、心理的に大きな変化が生まれて来るのはないでしょうか? そして、その年金を創りだしたのは、私もかなり協力したから、年金には当然権利ありという意識が強いようです。
ここで大きな考え方の差がある訳です。
まず、男性が、男性ホルモン作用による性向から、社会的外交的な生活に浸る日常生活的感覚に乏しい生活を送るのを、女性側は内向き的の見方から、男性の生活態度をそこまでしなくても、もう少し内向思考もあってしかるべし、と考えているといえましょう。少なくとも、今も団塊の世代までの男性の殆どは、戦後の経済復興のための戦士として突き進めと言う教育を受けて只管に頑張っていた訳で、社会の生活感覚が変わっているのに気が付いても、なかなか簡単には生活姿勢を変えられずにここまで来たという感じではないかと、見ています。一緒にその戦いを役割を分けて戦った戦友(?)を、理解できないのが、男性側からすれば残念と言えます。残念ながら、時代の急流れは、旧式泳法の男性達を押し流しているように見えます。
それには、協力を求める、男性側のやり方があるとのでは? たとえば下図のようにと、ある女性評論家のアドバイスがありました。参考にしてください。
とはいえ、かなりの中高年男性達は、それなりに妻との戦友関係も良く、その協力の下に、巧みに新しい生活に上手に適応し、第二の熟年人生を楽しんでいると思いますが、その不適合例が強く社会的関心を集めて、話題になり“男はもう沢山”問題として、長寿化時代を生きる定年後の団塊世代の厳しい問題とされているわけです。
ここで問題なのは、医学の立場からすると、たとえ、問題無く同居人的生活でも新しい第2の人生を共に歩む睦ましいカップルであると言えども、その生活の裏に、加齢による医学的健康問題が大きく関ることになるのです。
更年期熟年期の健康管理がクローズアップされて来ることになるといえます。
いま団塊の世代の定年前後の方達には、夫婦共に更年期障害を持っている可能性もあり、健康的にお互い不調時代である可能性があります。性役割問題以前の人間生き物としての問題が潜んでいるのを忘れないで下さい。車と同じ車検意識が絶対に必要ですが、なかなか実行されてないことが問題といえます。
そのドックでの検査も、殆どの現在の人間ドック・チェックリストの中には、残念ながら、そのエンジンオイルに当たる性ホルモン関連検査が経費の関係からか、殆どは入れていないことも、覚えておいてください。
1世紀のQOL医学の確立が強く求められている大事な事項と考えているのですが、普及はまだまだのようです。
次回は医学的問題についてを検討します。
筆者の紹介
熊本 悦明(くまもと よしあき)
日本Men’s Health 医学会理事長
日本臨床男性医学研究所所長
NPO法人アンチエイジングネットワーク副理事長
著書
「男性医学の父」が教える 最強の体調管理――テストステロンがすべてを解決する!
さあ立ちあがれ男たちよ! 老後を捨てて、未来を生きる
熟年期障害 男が更年期の後に襲われる問題 (祥伝社新書)
この記事が気に入ったら「いいね!」しよう
最新記事をお届けします